マルコ・ポーロからの手紙 ( A Letter From Marco Polo )

イタリアンレストランや焼肉屋からのダイレクトメールのことではない。
マルコ・ポーロ本人から、700年の時空を超えて手紙が届いたことを、真面目に空想してみた。

音楽がきっかけで広がる、学ぶことの楽しさ。


もともとの動機は、音楽を作ろうとしたに過ぎないが、音楽を作ることがきっかけとなって、おかれた環境、書物・歴史そのものに興味が湧いてしまう。
自然の音を集めに旅行に出たり、人類や日本人の歴史に興味を持ったり、まあ所詮、自己満足の範囲ではあるが、広がりがあることは楽しい。

マルコ・ポーロは実在の人物、ということにしたい。


「STAP細胞はあります!」と叫んだ小保方晴子氏は、方向転換して、文筆家?アイドル?としての才能を発揮しているようだが、ところで、STAP細胞は本当に存在しないのか。
科学的に100%存在しないと証明されたというのか。

大事なことが忘れられている。
何か新しい物事が知らされたとき、「おおそうか!」と驚きをもって、まず初めに、素直に受け入れるべきである。二律背反、おおいに結構ではないか。AでなければBだ、というのは学問の世界、論理学、法学、空想の世界では成り立つが、しかし真実は、Cだったりするのだ。

マルコ・ポーロの実在を疑う人がいる。


現クロアチア(当時はジェノバ共和国)のコルチュラ島に生家が残っているらしい。ツアーのコースにもなっているようだが、ゆかりのものは殆ど展示されていないらしい。あの「東方見聞録」について、後世の人は、非科学的、ロマンチック過ぎる、嘘っぱち、と感じるらしい。

しかしだ。
マルコ・ポーロは中世13~14世紀のイタリアの商人。その頃は、まだルネッサンス前であり、世界は、お好み焼きのような円盤の上にあると思い込まれ、さしずめ日本なんぞ隅っこにある沢庵のひとかけら、呪術、瞑想、悪魔の存在、戦争、略奪ありの非科学的な混沌とした時代であった。

マルコ・ポーロが言い伝えた「東方見聞録」では、アジアの旅行記として、地方の特産物、ヨーロッパ人には非常識と感じるような人々や各階級の行動や風習、特に王族や首長の、わがまま放題な生活、などが、紹介されている。

言い換えれば、アジアの各地域の人々や階級が、何を欲求しているか、何にワクワクしているか、何を恐れているか、それがくっきりと表現されている。そのことにより、ヨーロッパ社会として、アジアと、どのように商売、交易、をしていったらいいかを、考えさせる動機を提供している。学者ではないのだから、上品な話題は乏しい。昔から世界どこでも、人間は欲張りなんだと知らされる。だからこそ、実在した商人だと確信する。

繰り返しになるが、新しい物事は、まずは「おおそうか!」と、あるがままに、素直に受け入れれば、世の中はもっと進歩する。


現代は、ちょっと不味ければ食べない、ちょっと問題があれば全部を排除する、そんなことが多過ぎないか。


戦乱の中世を生き抜いた彼らベネチア商人は、各地方で起きる、非常識が常識になる、悪が善になる(というか悪でない)、ようなことから目を背けない、ありのままに受け止めることが出来た、凄い人たちだったのだ。

実在を疑うということは、実に罪なことである。

とにかく、イヤになっちゃう。これだけ一生懸命にマルコ・ポーロのことを勉強してるのに実在しない、なんて言われると・・。
前もそう。「聖徳太子」の勉強してたら、聖徳太子は実在しない(かも知れない)なんて書いてあったので、すごくショックだった。


例えば、実在を疑われる問題は、

「STAP細胞」「聖徳太子」「マルコ・ポーロ」「火星人」「ネッシー」「ユリゲラーのスプーン曲げ」「森友加計問題」・・・など枚挙に暇がない。

とにかく、夜も眠れなくなるくらいショックが大きいので、本当はなかった、いなかったなどと言わないでほしい。

マルコ・ポーロのアジアの旅~その帰路に注目した。

その頃は、モンゴル帝国が、史上最大の領土を占める超大国で、大きくなり過ぎてコントロール不能のため連邦制へ移行して、その中核の国が「元」であった。

マルコ・ポーロは、往路は、欧州からシルクロードに沿って「元」に入り、フビライ・ハーンに仕えた。
帰路は、今の杭州から「海のシルクロード」に沿って、中国南部(マンジ)~東南アジア~南アジア・インド~中央アジア~中東~イタリア、と辿っている。日本には来ていない。聞いた話として本に書かれている。

ただまあ、一応、曲としての編成上、旅程通りでは冗長でメリハリに欠けることもあるので、帰路をベースに、手を加えさせてもらった。

今回、(音楽で)旅した場所   <開始分秒>

1.日本(ジパング)< 0:00 >

最初は日本。よくありがちな和風ジャズタッチ。中世の日本を表現する音に何があるか、歌舞伎のお囃子「イヨー ポン」は、時代考証が合わない。だで、「ししおどし」にしたに。なかなかフリーでフィットする素材はない中で、NHKライブラリーのを拝借した。黄金の国ジパングは「東方見聞録」の中では、後半の、周辺の島々を語った第5章の中で登場する。文字量としては全体の1〜2%に過ぎないが、際立って不思議な国として描かれている。至る所が黄金で輝く超裕福な国だが、人食いの風習もある、といった驚きの表現となっている。

2.中国南部(マンジ)から東南アジアの水田地帯の風景 <0:34>

私自身が好きな風景。農家の前にずっと広がる稲作の田園地帯、遠くの方は霧で霞んでいるようなイメージ。

中国長江から南一帯、フィリピン、インドシナ半島、インドネシアまで含んだ地域。

3.南アジア・インド < 1:15>

インドやパキスタンに、のんびりした田園がないわけではないが、曲の展開上、メリハリが欲しく、ここでは、ダイナミックに民衆が踊り楽しんでいるものとした。なおインドはモンゴル帝国に征服されたことはない。

4.中央アジア <1:46>

インドと中央アジアの違いを表現するのは、困難さもある。フレーズの違いとしては分かりにくいが、モンゴル帝国の支配下であったタタール人(※)、遊牧民的な音楽をイメージした。

(※)タタール人は、その特徴を述べるのが難しい民族だと思う。
現代の日本人の持つタタール人、ほぼほぼ=モンゴル人、のイメージは、遊牧民族、相撲取りになってしまうのか。
しかし、あのフィギュアスケート金メダルの美人ザギトワの祖先はタタール人だ。
またタタール人の別の言い方のダッタン人については、超有名なクラシックの美曲、ボロディン作曲の「ダッタン人の踊り」は、美し過ぎる。
だから一般的に言えば、タタール人=美の代表、と見なしていいと思う。
ただ、申し訳ないが、朝青龍とザギトワは、私は一緒にイメージ出来ない。
しかし、広い意味、同じなのだ。
まあ、もっと広く、モンゴロイドと括れば日本人も入ってしまい、羽生結弦もザギトワも一緒だ。
面白い。

5.モンゴル帝国の騎馬兵 <2:02>

中央アジアを移動中、モンゴル帝国の騎馬兵と出会った。騎馬兵は西に向かって走っていった。

モンゴル帝国が史上最大の領土に拡大できた理由の一つに、騎馬兵は常に替え馬を2~3頭(5~6頭との説もある)持っていたことがある。疾風怒濤の如く敵地に攻め入り、元気な馬とすぐに交替したり、馬の肉を食料としていた。

6.アラビアの王宮 <2:29>

アラビアの王宮へ到着した(ことにしたい)。東ローマ帝国のコンスタンティノープル(今のイスタンブール)あたりを経由してイタリアへ帰るのが普通に思えるが(※1)、当時、東ローマ帝国は弱体しコンスタンティノープルもオスマン・トルコによって占領される頃で戦火にさらされていたことだろう。
そんな場所に、静寂で、神秘的な、王宮があり、夢のような時間が流れるというような一幕を、音楽として当てはめることには無理がある。ここはウソを作り、一行は、アラビアの王宮に到着したことにしたい。

一行は、総大理石造りの荘厳で幻想的な王宮内に入った。

(※1)コピー転載は違法なので、お示し出来ないが、平凡社「東方見聞録」巻末に添付された行程図を見ると、コンスタンティノープル経由ではなく、イスラエル北部の港アッコ(アクレAcre)からイタリアまで、地中海を船で帰ったようになっている。
しかし、中公新書 宮崎正勝著「ジパング伝説」の第三章に挿入された行程図では、コンスタンティノープル経由でイタリアへ帰ったように書かれている。
さあ、どちらが真実だろうか、謎である。
とにかく、今も昔も、中東は、いつも戦場である。

7.宴と美魔女の誘惑 <3:09>

マルコ・ポーロ一行が財宝を運んでいることを知っているようで、王様から、宴と美魔女で、アラビアンナイトな、おもてなしを受けた。取引を迫られた。この部分の音楽表現については、ちょっと長過ぎるような気もする。誘惑を振り払う状況も含めている。

8.帰路のシルクロードへ~イタリアへ到着 <4:20>

ここで油を売っている場合ではないので、帰路のシルクロードへ戻った。イタリアへ帰着。

まとめ

「 東方見聞録 平凡社 」浜北区図書館蔵書
  • 「東方見聞録」は、浜北区図書館で借りた本としては「聖徳太子」以来である。例の如く、ななめ読みだが、それぞれの国や都市の話題には、ストーリーや関連はないため、バラバラに好きな箇所を読めばいい感じである。泥臭さと躍動感の溢れる名著である。人間の欲や好奇心もくすぐられる。マルコ・ポーロのアジア紹介が引き金になって、その後の大航海時代が開かれていったのであろう。
  • 歴史の考察と音楽制作を結び付けることは、自分が感じる世界観を持ち込めばいいので割とラクだが、今回のように、既存の書物の感想と音楽制作を結び付けるのは、つまりマルコ・ポーロが感じたであろう世界観を想像する作業は、あまり自分勝手な音作りでは相応しくないため、私としては、なかなか困難なことだ、と感じた。
  • 今回久しぶりにLogic Proを使った。最初からイフェクトが設定された音源になっているので、ラクなようだが、たくさんの音を重ねる時は、音がぼやけるため、イフェクトを取り除きたいが、途中からだと、ぐちゃぐちゃになりそうな困難さを感じる。
    小規模なバンド編成の曲ならLogic Proの方がオシャレな出来になるかも知れない。
  • それと比べて、Cubaseは、素の状態から自分が設定するので、元に戻るのが何も怖くない安心感がある。今回も、本当はもっと、細かい変化、例えば、スピードを全然変える、ぐっと小さい音にしてしまう、といったことをやりたいと思ったが、Logic Proは、ぐちゃぐちゃになりそうで、やれない(やり方が分からないことでもある)。
  • 例えていうと、Logic Proは、既に味付けされたレトルト食品で、Cubaseは素材から作る、といった違いを感じる。

( May/2018 )( Logic )

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