本当の謎は聖徳太子自身にあり -「隠された十字架」に思うこと 3

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< 浜松市立図書館蔵>
「隠された十字架」新潮社版

若い頃読んだ「隠された十字架」だが、この歳になってまた興味が湧き、図書館で借りてきた。この本や法隆寺について、気付いたことを書いていこうと思う。


根本的な謎

結論を急ごう。

梅原猛氏は本書の最後に、こう語っている。

いったい、聖徳太子とはいかなる人か。われわれは、その人をどう考えたらよいか。一つの謎の解明はまた新たな謎を生み、その謎の解明なしには「隠された十字架」という仮に私がこのエッセエにつけた題名の意味も十分に理解されないであろう。私は最初、法隆寺の謎が解ければ、聖徳太子という人の謎もしぜんに解けると思っていた。しかし、どうやら、そうではないようである。その謎はなお深く、根本的に、稿を改めて取り組まねばならない。
認識の道は、限りなく困難な道であるが、また限りなく楽しき道なのである。

いったい、聖徳太子とはいかなる人か。 私はそれが分からないんだ。梅原猛氏は、そのように読者に訴えかけている。では、もう少し踏み込んでみたい。

隠されたもう一つの根本的な真実

 

梅原猛氏は、梅原氏自身が付けた本書のタイトル「隠された十字架」について、つまり、「ここに隠された、背負わねばならない辛い苦しみや罪」の真因は、私には益々分からないものになってしまった。私がのめりこんだ世界なのだ。だから他の誰にも分からないだろう、と言いたげなあたりは、ちょっと傲慢な感じもある。その傲慢さがガキ大将っぽくて好きな部分ではあるが。

ま、ともかく、本書執筆時点では、そういう位置づけにある。

それより何より、梅原氏は、本題である法隆寺の謎の解明について、本書で完結出来なかった、かえって更にモヤモヤさせてしまった、寝てる子を起こしてしまった、そういうことではないか。なぜ、私は、そのような世界に放り込まれなければならなかったのか、と、梅原氏は自問自答しているのである。

筆者はこう思う。
このタイトルは神の啓示であったと。
神の雄叫びであったと。
神が梅原氏にこの使命を授けたと。
深遠に、神により、梅原氏は、まるでメビウスの輪の上に乗せられてしまった。梅原氏自身と聖徳太子が神によって結ばれて、行ったり来たりしている、そうした運命の「十字架」を背負ってしまったのだ。
と。

もっと言うと、

藤原不比等が背負わされた十字架、即ち太子の怨霊の鎮魂、それは確かに事実だろうが、私はもっとスケールの大きい怪物に憑りつかれてしまったのだ。私はもう、この探究から一生逃れられないのだ。私の心に十字架が貼り付いてしまったのだ、それが一番言いたい真実なのだ、と。

この本の終盤は、メラメラと燃える炎の前で、まるで、夢遊病者のように、踊り狂いながら、憑依した聖徳太子の霊魂を吐き出しているようにも思えるのである。(ちょっと大袈裟か・・)

臨場感!

本当に文章の上手な人だと思う。
日本ペンクラブ会長を歴任されただけの実力である。

※本書を読んでいない人のための蛇足だが、ベストセラーとなった本書の発刊後、聖徳太子はキリスト教(景教)の影響を受けていたとの説が有力になる。それはおそらく正しいだろうが、少なくとも、本書では、「十字架」とは、梅原氏が背負った運命の比喩である。と理解するのが正しい。

本の返却期限が迫ってしまった

筆者は今、重大な問題に直面している。実は、本書は、現在、貸し出しの延長期間中で、返却が1月11日と差し迫っている。再延長は不可とされている。
初回の貸し出し:2015年12月13日ー2015年12月27日
延長の貸し出し:2015年12月27日ー2016年1月11日
この間、筆者は何をしていたのか。どれだけ真剣に本書を読もうとしたのか。
夏休みの読書感想文のように、最後の1ページだけ読んで書くような姑息な手段を用いるなんて、恥ずかしいと思わないのか。
単なるナマケモノじゃん。

しかしながら本書については、少し期間を空ければ、また貸し出してもらえるものと信じている。

次回は、筆者の持つ聖徳太子のイメージについて触れ、間繋ぎをしようと思う。

ほらふきドンドン 作:ジョージ秋山<講談社コミックス>

ほらふきドンドン 作:ジョージ秋山<講談社コミックス>

続く。